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2009年09月07日

下関通り魔事件録

1964年に生まれた上部康明は、両親ともに教師で、妹が一人いた。

地元高校卒業後、一浪した後に大学に進んだ。
今まで熱心に努力してきた上部は「大学では、思いきって遊ぼう」と考えていた。

しかし入学すると「みんなが自分を嫌っているのではないか」と思い始めるようになる。

大学卒業後、上部は「人間関係が嫌だ」と、なかなか就職しなかった。

1987年、心配になった両親が東京の病院に入院させた。

1988年、5月には福岡市内の精神病院に入院もした。

いくつかの職場を経た後、福岡市内の設計事務所に勤める。
事務所は所長と二人だけの職場で、上部も人間関係に悩まされることが少なくなった。

対人恐怖症の症状も、落ち着いていった。

1992年。
一級建築士の資格を取得したのを機に、退社。

父親の援助などで自身の設計事務所を開いた。

1993年、10月。
結婚相談所で知り合った女性と結婚、福岡市内で生活を始める。

保母をしていた妻は、二級建築士の資格を取り、夫をサポートしていた。

1997年。
元来の人間関係に対する不安から営業不振になり、廃業状態。

妻の収入や、実家の仕送りで生活していた。

1998年。
事務所を閉鎖。
新婚旅行で行った、ニュージーランドへの移住を考えるようになる。

同年、2月。
上部は福岡市に妻を残して、実家に帰ってしまった。
6月に妻は、自宅を出て単身、ニュージーランドに渡ってしまった。

1999年。
実家に戻り、ローンで購入した軽トラで軽貨物輸送の仕事を始める。

同年、6月。
ニュージーランドから帰国した妻は、「貴方と再び、結婚生活を続けていける自信がない。お願いだから私と離婚して下さい」と上部に離婚を迫った。

上部の説得虚しく離婚となったが、それでも「自分ひとりだけでもニュージーランドに行こう」と仕事に励んだ。

9月24日。
台風18号の影響で、仕事に使っていた軽トラが冠水して故障。

何をやっても上手く行かない、と働く意欲を無くし、同居する父親にローンの肩代わりと移住費用を申し込んだが、拒否された。

「家の車を貸してやるから、それで仕事を続けて、自分でローンを返せ」

真面目で努力家だった上部は、「努力していても上手くいかないのは、周りに責任がある」と考えるようになり、社会に対する憎悪の気持ちを高めていった。

生きていても仕方がない。
自殺しよう。
いつも自分だけがみじめな思いをしてきた。
ただ死ぬわけにはいかない。
社会に大きなダメージを与えてやろう。
それには大量無差別殺人しかない。

そう思い、犯行を決意した、と後に述べた。

9月28日。
下関市のディスカウントショップで、刃渡り18センチの文化包丁を購入。

犯行場所の下見に、JR下関駅に立ち寄り、車で突っ込む場所を決めた。

犯行予定日は10月3日の日曜日に決め、自宅のカレンダーの3日の日付に「スクランブル・アウト」と書いている。

9月29日。
父親から「冠水した車の廃車手続きは、自分でするように」と言われ「この期に及んで、面倒な廃車手続きをするなんて」と腹が立ち、今日のうちに決行してしまおうと計画を変更。

軽自動車で自宅を出た後、午後2時過ぎに駅近くのレンタカー会社に車を預け、白の車を借りる。

人通りの多くなる夕方。
犯行15分ほど前に睡眠薬120錠を飲んで、下関駅に突っ込んだ。

午後4時20分頃。
乗用車が猛スピードで、駅のガラスを突き破り、突っ込んできた。

改札口付近まで約60メートルを暴走しながら、通行中の七名を次々と跳ね飛ばした。

改札口あたりで車を停めると、上部は文化包丁を振り回してホームに向かう。

途中の階段で一人、ホームで七人を切りつけた。

午後4時30分頃。
現行犯逮捕。
死者五人、重軽傷者10人の惨事を招いた。


【裁判】
1999年、12月22日。
山口地裁にて初公判。
偶然にも同日、東京地裁では池袋通り魔事件の初公判があった。

2000年、3月8日。
第四回公判が開かれ、検察は供述書の中で、上部が犯行の三週間前の池袋通り魔事件を意識していたことを明らかにした。

調書によると「池袋のようにナイフを使ったのでは、大量に殺せないので車を使った」と供述している。

同年、3月29日。
第五回公判が開かれ、弁護側の被告人質問で上部は「事件は自分の意志で起こしたのだが、(精神的に)追い詰められていくうちに、神の指示があったように思う」などと述べた。


上部は意味不明な発言を繰り返すようになり、時には奇声を上げて廷内で暴れるなど奇行が目立ち始める。

罪逃れのための演技であるか実であるか、精神鑑定が行われた。

検察側が死刑求刑の根拠とした鑑定は、犯行時の精神状態を「人格障害が背景となった反応性うつ状態を繰り返していたが、刑事責任能力への影響はない」と結論。

弁護側が受け入れた鑑定では「統合失調に近い妄想性障害で、心神喪失または心神耗弱」と判断。


2002年、9月20日。
上部被告に求刑通り死刑が言い渡された。

9月25日、弁護側が判決を不服として控訴。

2005年、6月28日。
広島高裁で控訴を棄却。

7月1日。
被告側が広島高裁での死刑判決を不服として上告。

2008年、7月11日。
最高裁で被告側の上告を棄却、死刑が確定した。


【もう一つの裁判】
下関の事件で、コンコースで自動車にはねられて死亡した二人には自動車保険(自賠責保険)が適用。

死亡時3000万円が遺族に対して支払われた。

ホームで刺殺された三人の遺族には「犯罪被害者対策給付金」となり、改正前の最高額1097万円と、支払額に差が生じるという問題が発生。

2000年、9月27日。
二周忌となり日、死亡した被害者四人の遺族と、九死に一生を得た重症被害者一人が合計、1億8500万円の損害賠償を、上部被告と両親、及びJR西日本を相手に提訴した。

死者一人当たり5000万円(うち一人は自賠責保険金3000万円を控除)、重傷者は1500万円を求めた。

2002年、9月26日。
軽傷の四人と現場に居合わせてPTSDを発症した一人の計五人が、上部被告と両親を相手に、総額1700万円の損害賠償を求める訴えを、山口地裁に申し出た。

提訴したうちの三人は「駅の管理責任に問題があった」として、被告にJR西日本を含めた。

2004年、11月1日。
計2億200万円の損害賠償の判決は、上部に約1億6200万円の支払いを命じた。
両親とJR西日本に対する請求は棄却。

原告側は「両親は被告を精神的に追い詰め、JRは安全対策に落ち度があった」と主張。
両親とJR側は、これらの責任を否定していた。

11月12日。
上部だけに1億6200万円の支払いを命じた判決を不服とし、控訴。

2006年、3月13日。
広島高裁は上部や両親、JRに約2億円の損害賠償を求めた控訴審で、上部のみに賠償を命じた一審判決の賠償金額を変更し、約1億7200万円とする判決を言い渡した。

JRの安全責任については「一企業が多種多様な犯罪への対策を取るのは困難。事件を防ぐ法的義務があるとまでは言えない」と述べ、請求を退けた。

判決は事件の突発性を挙げ、駅員が防犯ベルを押すことが出来なかったことなどについて「時間的、心理的な余裕はなく、過失があったとまでは言えない」と指摘。

歩道や駅コンコースに車の進入を防ぐポールがなかった点についても「上部被告の行動は通常を逸脱しており、駅の構造に欠陥があったとは言えない」と述べた。

両親の責任については「被告への言動に過失があったとは言えない」とした山口地裁の判決を支持し、請求を退けた。

2007年、1月25日。
最高裁は遺族や被害者らが、JRに対して安全体制を確立する義務を怠ったとして、約2億円の損害賠償を求めた訴訟で、原告側の上告を棄却した。


【参考】
オワリナキアクム>>
Wikipedia>>
無限回廊>>
下関駅通り魔事件被害者の会>>
街の灯>>




posted by 隠密 at 15:57 | ラスベガス ☀ | TrackBack(0) | 事件・事故
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